いとたけ考 8月
こんにちは、会長です。
毎月1日には必ず更新しているんですが、今月は期末試験が今日まであって遅くなってしまいました(^^;
ようやく期末試験が終わったんですよ~(´∀`*)ウフフ
そういうわけでかなりテンション高いです(´∀`*)ウフフ
先月は部内コンサートである「たなコン」が開催されまして、いやぁ楽しかったですね~
たなコンの詳細はおそらく近いうちに他のメンバーが書いてくれると思います(`・ω・´)
というわけで、今月もマニアックなことを長々と書いていくんですが…(笑)
みなさんは「生曲」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
”しょうきょく”と読むんですが、おそらく国語辞典にもないと思います。
先日古典尺八のCDを久々に聴こうと思ってジャケットの解説を眺めてたら、生曲って書いてあるのを見つけたんですね。ちなみに”古典尺八”というのは虚無僧が吹禅のために吹いていた曲で、全国の普化宗のお寺にありました。地域やお寺によって伝わり方も違っており、同じ曲名でも全くの別物ということがよくあります。宗教音楽ですからいわばお経みたいなものなんですね。
明治になって政府は虚無僧の普化宗を廃止に追い込みます。これによって古典本曲というのも風前の灯火となってしまいました。
このような状況下で、神 如道(1891~1966)という人が全国の虚無僧のお寺を訪ねて古典本曲を採集し、まとめあげるという偉業を成し遂げたのです。この努力のおかげで、今日でも古典本曲は宗教音楽から舞台音楽に姿を変えて演奏され続けているわけです。
先ほどの「生曲」というのは、この神如道氏の造語です。神如道氏は古典本曲を集める傍ら、自らも古典本曲を作りました。その際、「作曲」という言葉を用いず、「生曲」という言葉を用いたのです。
なぜ「生曲」というのかについて、私の持っているCDの解説にはこう書かれています。
「音楽は単に一個人の作為によって出来るというより、宇宙の造化の営みが、仮に一人の人間を通じて発現するものであるから、曲を作る(作曲)ではなく、曲が生まれる(生曲)のだ。」
古典本曲が描く世界というのは確かに自然の真理的なものであり、人間はあくまで「預言者」的な存在なのだというのは納得がいきます。
曲が生まれるべくして生まれるって素敵ですよね。
そ・れ・な・ら・ば
現代において古典スタイルの曲が全く生まれないのは不思議な気もします。明治期までで古典スタイルは出尽くして今では発現することがないのか?
私はそうは思いません。
仮に西洋音楽におけるクラシックやジャズのようにジャンルの違いとして現代曲も古典もそれぞれ発達してきていれば、お互いもっと発展したのでは…と思います。
そもそも古典と現代曲のようにジャンルとしてでなく、新旧で分けてしまっている時点で両者の共存は前提とされていないような気もします。特に日本人の場合、新しい文化を広く受け入れ、その代わり共存は許さずあっという間に新しい文化へシフトするというのが歴史を見ても明らかだと言えます。
民族性といえばそれまでですが、何百年も続いてきた「歌物」の文化が風前の灯火となりかけているのは悲しいものです。
まだまだ古典スタイルの曲は生まれたがっていると私は思います。
とまあ最近なんとなく思っていたことを文字に起こしてみたのですが、具体的にどうすればいいかと言われても、その答えというのは見つかっていません。が、音楽産業が資本主義における商品となってしまうと偏りが生じてしまうのかなと…なかなか難しい話です。
今月はこんなところで。
余談ですが、わたくし無性に旅に出かけたいのですが、今年の夏は遠くに行く予定がありません…その発散?として近々旅行記でもこのブログで書くかもです(笑)たまには邦楽からそれた物もいいですよね…( ◠‿◠ )
ありがとうございました。