いとたけ考 9月 ~都山と琴古の楽譜の考察~
こんにちは~!
昨日は紫千会有志でディズニーランドへ行ってコーヒーカップで絶叫してきた会長です。
日曜でしたが、九月に入ったせいで高校生以下は学校へ、夏休み中の大学生は土日を避ける傾向がある、ということで割と空いていました(´∀`*)ウフフ
さっき後輩と話してて楽譜の話題になったので、この際、尺八の楽譜について書いてみようかと思います。
尺八譜は細かく分けるとキリがないですが、大別すると琴古流の楽譜と都山流の楽譜の二種類があります。(下写真:右が都山譜、左が琴古譜)
といっても、現代曲では曲の機能性から言って都山譜が最適なので琴古譜の出番はないですが、古曲では両者ともにあるので、なかなか面白いです。今回は読み方とかでなく、それぞれの機能面について考察していきます。
ちなみに上の写真は私が持っている楽譜です。本当は六段の楽譜とかの方がわかりやすいんですが、手元にこれしかなかったのでごめんなさい。古典の大曲、「尾上の松」という曲です。琴古譜の方はフレーズを囲ったり、手付直しを書いちゃってるので汚いですね、すみません(笑)
ま、同じ曲の楽譜でも見た目がだいぶ違うのはご存知の通りです。
ですが、サイズも違うのはご存知でしょうか?
都山譜は見開きだとB4サイズです。尾上の松は20分の曲なのでB5の紙5枚分の量になります。
対して琴古譜は縦がA3サイズ。横は折り本式なので1ページ当たり9㎝。尾上の松では14ページあるので全部延ばすと126㎝!!
狭い部室で全部広げるのはばかられますね(笑)
都山譜の方がフォントが小さい分楽譜がコンパクトです。フォントは小さいですが、小節の枠もあってスッキリしてるため見やすいですね。
さて、中身の違いに入っていきましょう。
↑こちらは都山譜の1ページ目です。都山譜では速度記号が書いてあります。”「徐”みたいなのがそれです。古典では速度変化が著しいものが多く、こうした合図は初見で楽譜を見てもある程度は自力で吹けそうですね。
また、唄の歌詞が読みやすい活字になっているのでこれも非常に見やすいです。
↑一方こちらは琴古譜の1,2ページ目。琴古譜では大抵1ページ目に歌詞が書いてあり、楽譜は2ページ目から書いてあることが多いです。こちらも歌詞は楽譜上にも書いてありますが、旧字の平仮名も多く、正直読みにくいです。(眺める分にはとてもかっこいいんですがね~~)
小節という概念がないので、西洋音楽出身の人には見づらい楽譜かもしれませんが、日本式の拍の取り方は古曲のテンポにマッチしていて、「間」をつかむのは琴古譜の方が私はいいと思います。
都山譜を拡大してみました。
小節線があることでやはりシンプルかつ見やすい楽譜です。
明治期に都山流が一気に広まった理由として、この見やすい・わかりやすい楽譜が挙げられます。わざわざ師匠に習わなくても、楽譜を見れば曲が吹ける。これは革命ですね。
琴古譜では拡大してみると、所々左に細字で別の旋律が書いてあります。
これは掛け合いの部分で三味線が弾く旋律を表しています。
琴古流の手付は三味線のメロディーをなぞるようになっていますが、所々で別のメロディを奏でるときがあります。そのときの道しるべといったところでしょうか。
他にも、「或」という文字の下に違う手付が書いてあることがあります。
古曲では系統や先生によって伝わり方が違うので同じ曲でも社中によって部分的に違うことがあります。それをカバーするのが左に書いてある「或」の別手付なのです。
こちらも同じように「或」の下に1拍子と書いてあります。社中によって延ばす長さが違うことがあるためです。
都山譜は楽譜としての性能が格段に向上しました。また、手付も三味線をなぞるというより独自の動きも取り入れ、手付の改良もなされています。しかし、三味線と違う動きをするところで三味線のメロディ表記を省いてしまったのはちょっと惜しいところです。一挺一管だと不安になる箇所がちょっとある感じがします。また、手付自体も多くの社中に対応していないので、特に山田流と合わせるときはあまり向かないかもしれません。
琴古譜も琴古譜で、小節線がないのが合奏練習時のネックです。そしてそもそもが古いので、音楽的に間違った手付がされていることがあります。(息継ぎの場所とか)
また、特殊な本なので価格がとても高い。尾上の松だと都山譜は600円くらいで買えると思いますが、琴古譜では1800円もします。
楽譜の理想としては、都山譜の見やすさ・使いやすさに琴古譜の合奏情報の多さを合わせたものが一番いいと思います。また、三味線の旋律を左側に書いてスコア譜にするともっと合奏やフレーズの研究がしやすくなると思います。
琴古譜に関しては「在庫なし」の曲が目立ち、僕は現状を「楽譜危機」と呼んでますが、都山・琴古のいいとこ取りをした次世代の古典楽譜が出回ったらいいなと思っています。
今月はこんな感じで。ありがとうございました。
旅のすゝめ
こんにちは!
暑いような、そうでもないような日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
先日、部員の一人が京都で行われた「学生邦楽フェスティバル」に参加してきました。なんと京都まで在来線オンリーで向かったそうです。そんな話を聞いて、旅に行きたいな~という感情が高まるのですが、どうも今年は忙しくて遠出できそうにありません。
そこで、たまには邦楽無関係の紀行文的なものを書こうと思います~
関西方面へ鈍行のみで行く人も意外といるのではないかと思いますがどうでしょうか?
特に青春18きっぷのシーズンでは、この切符を使うと1日当たり2360円で移動できるので鈍行旅にはもってこいですね
僕も今までに何度か鈍行旅をやっていますが、一番きつかったのは…西千葉ー高松(香川県)のときと青森ー西千葉のときですかね。初電から終電までの時間乗り続けると、鈍行でも結構移動できるんですよ~.............................ですが、もう一度やろうとは思いませぬ(笑)
鈍行も悪くないですが、やはり僕は在来線特急列車を使うのが好きです。新幹線だと距離に対しての移動時間が短いし、トンネルも多いですから景色を見るなら在来線ですね。
僕の場合は行きは鈍行を使ってその土地までの距離を、移動時間によって実感するようにしています。
逆に帰りは特急を使って、旅先から急速に現実に戻ることへの感傷に浸ることが多いです。
春に紀伊半島の方へ行きました。
行きは大阪からほぼ鈍行で和歌山県へ向かい、帰りは紀伊半島の端っこ?の紀伊勝浦(熊野古道があるあたり)から名古屋行きの特急「南紀号」と使ったのですが、この南紀号、名古屋行きの場合は前面展望ができる車両が先頭となり、しかも自由席なので始発駅からなら最前列に座れる可能性が高いのです。
しかも紀伊半島の海沿いを走るのでオーシャンビューが何とも素晴らしい。
僕が乗ったのは紀伊勝浦を16時くらいに出発する列車で、名古屋には20時過ぎくらいについた気がします。この列車だとちょうど夕焼けの太平洋を眺めることができます。
ひとりお酒を飲みながら美しい車窓を眺めるのは至福の時間でした。
移動手段と割り切ってしまうと、退屈ですが、移動も旅のうち。夏休み、これから旅に出る方は、ぜひぜひ移動の際の列車も楽しんでいただければと思います~!
いとたけ考 8月
こんにちは、会長です。
毎月1日には必ず更新しているんですが、今月は期末試験が今日まであって遅くなってしまいました(^^;
ようやく期末試験が終わったんですよ~(´∀`*)ウフフ
そういうわけでかなりテンション高いです(´∀`*)ウフフ
先月は部内コンサートである「たなコン」が開催されまして、いやぁ楽しかったですね~
たなコンの詳細はおそらく近いうちに他のメンバーが書いてくれると思います(`・ω・´)
というわけで、今月もマニアックなことを長々と書いていくんですが…(笑)
みなさんは「生曲」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
”しょうきょく”と読むんですが、おそらく国語辞典にもないと思います。
先日古典尺八のCDを久々に聴こうと思ってジャケットの解説を眺めてたら、生曲って書いてあるのを見つけたんですね。ちなみに”古典尺八”というのは虚無僧が吹禅のために吹いていた曲で、全国の普化宗のお寺にありました。地域やお寺によって伝わり方も違っており、同じ曲名でも全くの別物ということがよくあります。宗教音楽ですからいわばお経みたいなものなんですね。
明治になって政府は虚無僧の普化宗を廃止に追い込みます。これによって古典本曲というのも風前の灯火となってしまいました。
このような状況下で、神 如道(1891~1966)という人が全国の虚無僧のお寺を訪ねて古典本曲を採集し、まとめあげるという偉業を成し遂げたのです。この努力のおかげで、今日でも古典本曲は宗教音楽から舞台音楽に姿を変えて演奏され続けているわけです。
先ほどの「生曲」というのは、この神如道氏の造語です。神如道氏は古典本曲を集める傍ら、自らも古典本曲を作りました。その際、「作曲」という言葉を用いず、「生曲」という言葉を用いたのです。
なぜ「生曲」というのかについて、私の持っているCDの解説にはこう書かれています。
「音楽は単に一個人の作為によって出来るというより、宇宙の造化の営みが、仮に一人の人間を通じて発現するものであるから、曲を作る(作曲)ではなく、曲が生まれる(生曲)のだ。」
古典本曲が描く世界というのは確かに自然の真理的なものであり、人間はあくまで「預言者」的な存在なのだというのは納得がいきます。
曲が生まれるべくして生まれるって素敵ですよね。
そ・れ・な・ら・ば
現代において古典スタイルの曲が全く生まれないのは不思議な気もします。明治期までで古典スタイルは出尽くして今では発現することがないのか?
私はそうは思いません。
仮に西洋音楽におけるクラシックやジャズのようにジャンルの違いとして現代曲も古典もそれぞれ発達してきていれば、お互いもっと発展したのでは…と思います。
そもそも古典と現代曲のようにジャンルとしてでなく、新旧で分けてしまっている時点で両者の共存は前提とされていないような気もします。特に日本人の場合、新しい文化を広く受け入れ、その代わり共存は許さずあっという間に新しい文化へシフトするというのが歴史を見ても明らかだと言えます。
民族性といえばそれまでですが、何百年も続いてきた「歌物」の文化が風前の灯火となりかけているのは悲しいものです。
まだまだ古典スタイルの曲は生まれたがっていると私は思います。
とまあ最近なんとなく思っていたことを文字に起こしてみたのですが、具体的にどうすればいいかと言われても、その答えというのは見つかっていません。が、音楽産業が資本主義における商品となってしまうと偏りが生じてしまうのかなと…なかなか難しい話です。
今月はこんなところで。
余談ですが、わたくし無性に旅に出かけたいのですが、今年の夏は遠くに行く予定がありません…その発散?として近々旅行記でもこのブログで書くかもです(笑)たまには邦楽からそれた物もいいですよね…( ◠‿◠ )
ありがとうございました。
いとたけ考 7月
早いもので今年も半分が過ぎようとしています。
私の任期も折り返しを過ぎましたが、まだまだやることが多い~!
今月は部内のおさらい会として9日に七夕コンサート(通称たなコン)を行います。1年生のデビュー戦でもあるので部内はたなコンムード一色といったところです~
今月の話題なんですが、ひとまず邦楽からはちょっと離れて。
古典落語の「芝浜」という演目をご存知でしょうか?
この芝浜はなかなかの大作で、一席演じると50分かかります。三曲の大曲である八重衣や融ですら30分ですから、その倍近い長さなんですね。話の筋は古曲の歌詞と違って全部書いてしまうとネタバレになってしまいますから書きませんが、「夫婦の情愛」をテーマとしたものになっていて、笑い話というより感動できる話です。多くの落語家が演じていますが、今は亡き5代目三遊亭圓楽さんが最後に演じた作品としても有名です。
僕は前から芝浜が気になっていて、6月頭のテストが終わった休日に自室でようやく聞くことができました。せっかくだったので違う噺家のを2作品一日で聴くという、なんとも贅沢な一日を送ったわけです(笑)
話の内容に感動したのもさることながら、50分にわたる上演で1分たりとも気が反れることはありませんでした。これぞ名人芸だなと思うわけですが、話し相手を50分間ずっと飽きさせないってすごいと思いませんか?
落語を聴いていると、だいたいどの話も同じようなテンポで展開されているような気がします。このテンポこそが飽きずに話の世界に引き込まれるものなのでしょうか。
日本の文化は「間」がキーポイントになってきます。この間がいかに上手く扱えるかが上手い下手の、面白いつまらないの分かれ目だと僕は思っています。
舞台で独奏をするとしましょう。
自分としてはいつも通り演奏しているつもりでも、その時って鼓動が速くなっていることが多いんですね。すると自分が体感する「間」というのが通常よりも速くなっているのです。サークルのお稽古でよく先生が「いいか、お客さんも一緒に呼吸しているんだぞ。もっとたっぷり間を取りなさい」と指導して下さいます。お客さんは通常モードの「間」で聴いているわけですが、緊張している演者とお客さんのあいだで間がずれてしまうんですね。物理でわずかに異なる周波数をぶつけると、うなりという現象が見られますが、まさにそんなところでしょうか。
落語と同じようにお客さんに「聴かせる」演奏にするには、まず「間」の研究からしなければいけないなと思いました。
三代目桂三木助は「落語とはなにか」という問いに「落語とは絵だ」と答えました。
お客さんに情景をしっかり想像させるのも噺家の腕なんですね。
ここ何回かにわたって古典の出典背景を書きましたように、古曲にもストーリーがあります。これをお客さんに伝わるような演奏ができれば…と思うのですが、音楽である以上感性に訴えるしかありません。どんなふうに演奏すれば感性を刺激することができるのか、情景を描写できるのか…究極の目標ですよね。
古典はただ楽譜を演奏するだけでは長くてつまんないただ古い曲でしかありません。落語を台本読みながら棒読みしているようなものです。そりゃつまんないですよ。
落語を聴きながら、古典を練習するうえでの目標が新たに見つかった6月も、このブログを書いている間に終わりました(笑)
さて、2017年下半期突入ですね。