千葉大学「紫千会」のブログ!

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いとたけ考 11月  記念樹と都の春

11月になりまして、すっかり秋めいてまいりました…といいたいところですが、ここ最近「秋」が瞬く間に過ぎてしまうように感じます。

今月の18日は「著作権の日」だそうで、何かと話題のジャスラックの創立日みたいですね。

ここ最近「著作権」がうるさい時代ですが、これってどうなんでしょうか。

著作権特許権などを総称して「知的財産権」といいますが、要は財産的な保護を与えるものです。著作権は死後50年間保証されます。

で、なんで法律で保護するのかというと、著作物が財産的価値を持つ以上、簡単にまねされると創作への投資資金を回収できないことや創作自体が行われにくくなってしまうことが予想されるようです。

世の中やはりお金なんですなぁ…

 

僕は素人なので法律論は述べられませんが、この保護に対する副作用ってあると思うんですよ。

それが「記念樹事件」(東京高判平成14・9・6)です。

この事件はドラマのエンディングとして1992年に書かれた楽曲「記念樹」がすでに出回っている「どこまでも行こう」という曲の盗作であるとして作曲者が作曲者を訴える、という事件です。(民事事件なので、原告は著作者人格権の侵害による損害賠償を請求しました。)

結果としては、裁判によってパクリが認められ、判決確定の2002年以降、この曲は使用禁止及び公の場所で歌うことすら禁止になりました。

この記念樹という曲ですが、卒業ソングでもあり、僕も小学校2年生の時に歌いました。(ちなみに僕が小2の時は判決確定後ですが、田舎だったためか、まだ出回っていたようです。)

小学校低学年で歌った曲なんてほとんど覚えていませんが、いい曲だったので、記念樹は覚えています。

先日複数の友人に記念樹を知っているかどうか聞いてみましたが、95%は「知らない」とのこと。やはりこの世から消されてしまっていたのでした。

音楽での著作権問題って、コードとかの制約である程度似てしまうのは許容されるようですけどね。難しい。

結局、「記念樹」は著作権に殺されてしまったわけで、ある曲を保護するためのその裏側で別の曲が殺されることが起こりうるわけです。

なんだかなぁ…

こういう事件があると、現代において「パクリは悪」という認識が一般化しているように感じますが、かつては「パクリこそ善」という価値観があったと思います。

古典曲、特に江戸後期から明治初期にかけての作品は積極的「パクリ」が多くみられます。しかも、原曲作者の死後50年くらいでパクっているものも割りとあり…

「現代だったら訴訟案件やんww」

といった感じです。

でも、当時の音楽は財産としてのものではないですからね。それゆえ、「いいものは使っていこうスタイル」だったんでしょう。和歌の本歌取り然り。

山田流箏曲に「都の春」があります。1890年の現在の東京藝大が開校した時の記念に作られた曲ですが、この曲は明治期の曲ということもあり、本来の山田流の形式から離れ、生田流に近い形式をとります。

で、この曲は多くの曲を「パクって」いるんですね~

まず、前弾きは山田検校作曲「あづまの花」、合の手で松浦検校作曲「深夜の月」、手事で峯崎勾当作曲「残月」のフレーズをそれぞれ組み込んでいます。

面白いなと思うのは、江戸山田流の祖である山田検校、京流手事物の第一人者である松浦検校、大坂系の頂点である峯崎勾当と、江戸・京・大坂を代表する作曲家の曲を織り交ぜているところです。

藝大の開校記念曲としてふさわしい組み込み方だと僕は思います。

曲に組み込むことで先人への敬意になり、また例え原曲が廃れてしまってもパクリ先で生き続けることができる。

三味線組歌を「パクった」曲も多いですが、今ではあまり演奏されない組歌が別の曲の中で生きている典型的な例といえると思います。

こうして考えると、パクることが即ち悪というのは極端な気がしてきます。芸術性を優先にするならパクることも善いことである、というかつての価値観がわかってくる気がします。

そう思うと、記念樹が消えてしまったことがますます悔やまれてくるのです…