千葉大学「紫千会」のブログ!

千葉大学和楽器サークル「紫千会」のブログです。部員みんなで書いているので、ぜひ見てくださいね!

いとたけ考 9月

こんにちは。今月も残すところあと28日ですね。この時期になると徐々に演奏会シーズンに入っていきます。千葉大学紫千会も11月19日土曜日に定期演奏会が行われます。(まだ先ですね~)今回は改名により、カウントリセットし、第1回定期演奏会として行います!今年の見どころは30名以上入ってくれた1年生による六段の調大合奏です。かつてない規模なので、とても楽しみですね。(ただ、舞台に乗りきらないときは2つに分ける可能性もあるとかで…)それ以外の曲では、2年合奏で京鹿の子娘道成寺、大合奏で四季彩、個人曲では八千代獅子、萌春、舞踏曲…etcといった感じです。

さて、宣伝(笑)が終わったところで、今月の話題ですが、先月はふざけてしまったので真面目に行きたいと思います(笑)。

先日、友人と話していて面白いことを言われました。

「音楽は手段なのか、目的なのか」

これについて答えはありません。どちらも当てはまりますからね。

考えれば考えるほど深い問いではありませんか?

尺八を例にとって考えてみましょう。

手段としての音楽、これは江戸時代に禅宗のひとつである普化宗で虚無僧が吹いていた曲が当てはまると思います。吹禅といって曲を吹くことでお経を読んだり、座禅を組んだりすることと同義としていました。この場合、音楽は吹禅のための「手段」として使われていることになります。(少なくとも虚無僧は尺八演奏家ではないですからね)尺八も楽器ではなく、「法器」とよばれ、木魚などと同じような、吹禅のための道具に過ぎません。

虚無僧たちによって吹かれていた本曲は明治維新後の普化宗廃止後も研究家や演奏家によって集められ、守られながら現在まで残っています。

現在では虚無僧本曲も演奏会で演奏され(というか吹禅で使われることはまずないでしょう)、その独特な音楽性で立派な舞台音楽の仲間入りをしています。観客は曲を聴くために会場にやってきます。つまり現在では虚無僧本曲は「目的」としての音楽に変わったのです。

同じ曲で時代で「手段」として使われたり「目的」として使われたりする例はおそらくまれではないかと思いますが、西洋の教会音楽も虚無僧本曲と同じですね。もともと宗教音楽だったものがこういった経緯をたどるようです。

客観的な見方としては今挙げたものですが、主観的な例はもう少しあると思います。

例えばゲーム音楽もただのBGMだと思えばゲームを盛り上げさせる「手段」に過ぎませんが、その曲が好きでゲームをする人もいるでしょう。これはゲーム音楽が「目的」になってますよね。駅の発車メロディもただの乗降促進音楽と考えれば「手段」ですが、僕のようにそのメロディを聴くために旅に出る人もいます。実際発車メロディを集めたCDも多く発売されているので、人によっては立派な「目的」としての音楽といえますよね。

このように人によって受け取り方が違うのもまた面白いですね。

暇なときに自分は音楽をどう捉えているか考えてみるのもいいと思います!